2020年9月14日に行われた自民党総裁選で菅義偉(すがよしひで)氏が新総裁に選ばれ、第99代内閣総理大臣となりました。
世間の注目を大いに集めている菅義偉新首相ですが、一部でその生い立ちに疑惑が生じています。
そこで今回は、
「菅義偉の生い立ちに嘘疑惑が浮上?貧乏や苦学生はイメージ戦略だった?」
というテーマで、菅義偉氏の生い立ちについて迫ってみたいと思います。
菅義偉は苦労人!
菅氏はこれまでメディアのインタビューでその生い立ちについて語り、かなりの苦労人だったということで注目を集めています。
菅さん総理大臣なると思ってた
凄い苦労人で凄い頭いい
二階さんが支持表明したのデカい
岸田さん総理大臣なるのは見ててやばいから他なら誰でも良かった— ろん (@loooon22) September 14, 2020
今日から新しい日本が始まった😉菅さん、何とも思っていなかったけど、生い立ちとか苦労された話しを聞くうちに応援したくなった!弱い人にも目を向けた心のこもった政治をして下さい。
— いとしのエリー (@PbyyyEvWgVtbEkK) September 16, 2020
ここでまずは菅氏のプロフィールを確認しておきましょう。
名前:菅義偉(すがよしひで)
生年月日:1948年12月6日(71歳)
出身地:秋田県雄勝郡秋ノ宮村
出身校:法政大学法学部第一部政治学科卒業
当選歴:1996年10月、衆議院議員初当選(以来8期連続当選)
職歴:総務大臣(第7代)、内閣府特命担当大臣(地方分権改革)、郵政民営化担当大臣(第3代)、内閣官房長官(第79代・第80代・第81代)など
ではここからは、菅氏がいかに苦労して国会議員となったのか、苦労エピソードをまじえてその生い立ちを見ていきたいと思います。
なお、生い立ちについては、テレビ東京のインタビューをベースにしています。
高校に片道2時間かけて通学!
菅氏は秋田県の雪深い田舎町、秋田県雄勝郡秋ノ宮村にイチゴ農家の長男として生を受けます。
地元の小学校、中学、高校に通い学生時代を過ごしますが、注目すべきは高校時代でしょう。
菅氏は実家から最も近い秋田県立湯沢高等学校に進学したのですが、なんと、通学に2時間もかかったといいます。
旧秋ノ宮小学校近くの家あたりから湯沢高校までの距離(18キロ程度)を2時間かけて通学したらしい。
引用:Yahooニュース
毎日片道2時間とすると往復4時間ですから、通学だけでも相当大変だったことがわかりますね。
菅官房長官出馬意向か。
秋田の農家に生まれ、高校も片道2時間かけて通学。集団就職で上京後は段ボール工場で働くが、現実の厳しさに直面。その後私立大の中で学費が1番安い理由で、法政大学法学部二部へ進学。
親のコネやエリートでもない苦労人。トップに立つ人間としてふさわしいと思います。— 智辯和歌山タイムズ (@ka94981613) August 30, 2020
菅さん高校2時間通学やったんや!遠距離通学仲間!好き!
— にゃー子ʕ•ᴥ•ʔ (@kaniza_no_neko) April 1, 2019
ダンボール工場で現実の厳しさを知る
長男は実家の農家を継ぐという慣習があったものの、父親の反対を押し切り、高校卒業後に上京しました。
農業を継ぐのが嫌で、(東京に)出てきたという感じですね
引用:YouTube
「東京に行けばなにか良いことがあるだろうな」と期待し、ダンボール工場に就職した菅氏ですが、現実は厳しかったようです。
出てきたけど良いことは全く無かった
このままここで一生働くというのも考えられなかった引用:YouTube
結果的に、現実の厳しさを痛感した菅氏はわずか2ヶ月でダンボール工場を退職します。
アルバイトをしながら大学受験勉強
ダンボール工場で働く最中、「一生に一度だから大学ぐらいは出ておいたほうが良いのではないか」という思いから、大学進学を決意します。
菅氏は入学費を貯めるため、約2年間もの間、いろいろなアルバイトを掛け持ちしながら受験勉強に励みました。
具体的には、朝は築地市場の台車運び、夜は新宿の飲食店でアルバイトをして生活していたようです。
入学金を貯めるため、築地市場の台車運びなどのアルバイトもしながら、アパートに帰れば試験勉強という生活を2年間続ける。
引用:菅義偉HP
朝から晩まで休みなく働き、試験勉強に励む生活を2年間もされていたとは、相当苦労されたことがわかりますね!
約2年後、菅氏は念願の大学に合格し「授業料が最も安かった」という理由で法政大学法学部政治学科へ進学します。
入学後もアルバイトし、学費を稼ぎながら大学を卒業します。
親からの金銭的な援助もおそらくなかったのでしょう、授業料の最も安い大学を選び、入学後もアルバイトで学費を工面していたのですね。
政治の道へ、しかしツテなし!
大学卒業後に菅氏は、田舎に戻るかどうか迷ったものの、東京で一旦就職することを決めます。
民間企業でサラリーマンとして働き、世の中が見え始めた頃に、「世の中を動かしているのは政治かもしれない」と思い立ち、政治の道に進みます。
もしかしたら、世の中を動かしているのは政治じゃないかと。政治の中に関与する仕事をしてみたい
引用:YouTube
しかし、秋田の田舎町から出てきた菅氏には政治の世界には全くツテがありませんでした。
そこで、法政大学の就職課へと飛び込み、大学OBの国会議員事務所に紹介を受け、小此木彦三郎(おこのぎひこさぶろう)元通産大臣の秘書として11年間勤めることになります。
ちなみに、秘書としての序列は7番目ぐらいとかなり下の方だったようです。
たぶん7番目ぐらいでしょう。全然(序列が)登らなかったんですよ。ですから私は公設秘書はしたことがないんです。
引用:YouTube
秘書として、しかも序列はそれほど高くない中でも11年間勤め上げたのは立派ですね。
その後、1987年に横浜市会議員選挙に出馬し初当選するのですが、選挙戦を戦う上で重要となる「地盤」「看板」「カバン」なしからのスタートでした。
そのため、なんと1日300軒も挨拶回りなどで訪ねていたようです。
一に行動、二に行動、1日300軒歩き続け、奇跡の初当選!このときの経験から「意志あれば道あり」が座右の銘となる。
引用:菅義偉HP
世襲議員などであれば、知名度・信頼などがすでにある状態から選挙戦をスタートできますが、そういったものが全くなかった訳ですから、菅氏は選挙戦でも非常に苦労したのだとわかりますね。
政界入りを果たした後も着実に実務をこなし、実力で国政進出、そして約8年の内閣官房長官を経てついに総理大臣になるのですね。
菅氏はまさに、「苦労人」「たたきあげ」という言葉がふさわしい人物といってもいいでしょう。
菅義偉の生い立ちは嘘だった?
今見てきたように、菅氏はとても苦労して政治の道を歩んできたわけですが、一部では
「菅氏が苦労人というイメージは嘘ではないか?」
との疑惑が持ち上がっています。
なぜそういった噂が広がっているのか、主に2つの理由が考えられます。
集団就職をした事実はなかった?
どうやら以前、菅氏のHPでは、同氏の経歴として、高校卒業後に「集団就職」で上京したとかかれていたとのことです。
なお、現在は「集団就職」ではなく、「家出同然で」と表現されています。
新潮は、以前の菅のHPでは、「集団就職」としていたが、いつの間にか「家出同然で」と書き換えられていたと報じている。
引用:JCASTテレビウォッチ
「集団就職」とは、一言で言えば、
地方の新規中等教育機関卒者(中学・高校卒)が大都市の企業や店舗などへ集団で就職すること
引用:Wikipedia
となります。
ただ、その背景には、高校進学させる金銭的余裕のない子供を、都市の企業に就職させて経済的に自立させようとする目的があったようです。
義務教育のみしか卒業していない(後期中等教育を受けていない)中卒者を送り出す側の事情として、特に1970年(昭和45年)頃までの地方では、所得があまり高くなく高等学校などに進学させる余裕がない世帯が多かったので、子供が都会の企業に就職することで経済的にも自立することを期待して、都市部の企業に積極的に就職させようとする考えが、保護者にも学校側にも存在した。こうした状況の下、中学校も企業の求人を生徒に斡旋して集団就職として送り出した。
引用:Wikipedia
ところで、菅氏の父親、和三郎は地元の町議会議員を務めたり、独自のいちごブランドを育てるなどしていますから、家庭はそれなりに裕福だったことが推測されます。
菅義偉氏の父・菅和三郎は秋田県雄勝町(現・湯沢市)の町議会議員を菅氏の中学校卒業頃から連続で4期務め、同時にいちご栽培で成功し、1959年(菅氏が10歳のころ)には地元組合の長となって以後51年間、独自のいちごブランドを育てる。2010年に死去すると、旭日単光章を叙勲されたほど成功した地元の名士である。
引用:Yahooニュース
菅義偉氏の幼少期について、
- 学年で2~3人しか買ってもらっていなかった「冒険王」という漫画が、自宅に毎月届いていた
- 同級生が自宅に列をなして漫画を読みに来ていた
というエピソードもありました。
したがって、菅氏は金銭的に余裕があり高校にも進学し、自分の意志で上京したわけですから、上で述べたような当時の一般的な集団就職とは異なると言えそうですね。
というわけで、これらを踏まえると、高校卒業後に上京してきたということは、広い意味では集団就職と言えるかもしれませんが、一般的なイメージとは異なるので、「嘘」だと言われてもしかたがないのかもしれませんね。
夜間大学出身は嘘?
先程生い立ちでも述べましたが、菅氏は法学部第一部政治学科を卒業しており、第二部(夜間部)ではありません。
しかし、一部メディアでは、法政の夜間部を卒業と報じられたことがあるようです。
だが、日刊スポーツ(9月3日付)は「法政夜間部を卒業」と報じ、(以下略)
引用:JCASTテレビウォッチ
後に菅氏は、2016年のインタビューでこうした報道を否定しています。
菅本人が2016年のインタビューで「メディアで二つくらい、法政の夜間卒だと書いているのがありましたが、昼です」と述べており(以下略)
引用:Wikipedia
どうやら、実際のところ、学費の安い夜間に転部を申し出たことがあり、このイメージが人歩きしたというのが実情のようです。
アルバイトで学費を稼ぎ、学生課に学費の安い夜間部への転部を申し出たこともあったという。このあたりから、集団就職、夜間大学というイメージが作られてきたようだ。
引用:Yahooニュース
菅氏が叩き上げで苦労人というのは間違いありませんが、メディアがそれを少し誇張しすぎたのかもしれませんね。
菅義偉の生い立ちの嘘疑惑まとめ
というわけで今回は、
「菅義偉の生い立ちに嘘疑惑が浮上?貧乏や苦学生はイメージ戦略だった?」
というテーマで菅氏の生い立ちや苦労エピソードについて深堀りしてきました。
菅氏は秋田の田舎に生まれ、一度はダンボール工場に就職するも現実の厳しさに直面し、政治の道を志すまでに多くの紆余曲折を経ていることがわかりました。
また政治の世界になんのツテもない状態から、実力で着々と政治家としての道を歩んで来ました。
一方で、苦労人というイメージが嘘ではないかという疑惑についても、一部メディアの誤った報道や、苦労エピソードが誇張されすぎたことがその原因なのかもしれませんね。
以上、最後までお読み頂きありがとうございました。